■流木
 朝目覚めてみたら、僕は流木になっていた。僕は今流木になってしまっているけど、あの話のように虫になるよりはマシだなと思いながら流されている。目覚めて、自分が流木になっているのに気が付いたのだけど、そこには夜、僕が眠りについてから流木に変化するまでのプロセスがあったはずだ。だけど、僕はそれを覚えていない。だからいつ変化したのかはまったく窺い知る事は出来ないが、僕は目覚めるまでにも相当の距離を流されているはずだった。そして目覚めてからも、もうずいぶんと流されているような気がする。このまま流されつづけて一体何処へ行くのか、そもそもここが河なのか海なのかもまったく見当がつかない。河だと思う事にした。

 僕は自分が流木となってしまった事に驚いていて、しばらくは流され続ける事しか出来なかったのだけど、今は落ち着いて周りを見渡す事が出来る。見渡す? そう、僕は今でも周りを見渡す事が出来る。勿論こうして考える事だって出来る。だからこうやって僕の心の動きを記すことも出来るのだ。そうやって見渡してみると、僕の他にもずいぶんと沢山の流木が流されているのがわかった。それは、あまりに多く、把握できないほどだったけど、僕らが浮かび流されている河があまりに広かった所為か、一つ一つの流木がおおよそどんな風体かが見て取れた。

 ある事実に気付いた。大きな流木がその大きさを誇示するように小さな流木を従えている、その様な光景も見られたし、小さな流木同士が集まって一つの群れを成しているかの様な光景も見られる。かくいう僕も気が付けば一つの群れの中にいる。流木の一つ一つにはそれぞれ特徴があるように思え、そして一つ一つはそれぞれ顔を持っていた。僕の周りには僕の知った顔がいて、僕は友達に話し掛けた。僕らはお互いに話す事も出来るのだ。ああなんだかあれだよななんか、皆流木になっちゃって、一体どうしちゃったんだろうね、こんなに流されて、そう話し掛けたのだが、彼は僕が何を言っているのか理解できない様子で、はぁ?わけわかんねえ事言うなよ、それより遊びに行こうぜ、と返してきた。
 「遊びに?何処へ?」
 「渋谷でも行く?CD買いたいって言ってたじゃん」
 僕はこの河の何処に渋谷があるのかが全然わからなかったので、いや、また今度な、と言ってそこを離れた。そこでもう一つ気付いたのだけど、僕らはある程度移動出来るようだ。流されている事実は、およそ変わらなかったけれど。朝目覚めてから僕は流れに逆らおうとしてみたけれど、本気で逆らいだすと河は形を変え、広さを増していった。「場所」の概念は確かに存在し、流れに逆らいながらでも、特定の場所から場所へは移動出来るようだったけれど、移動とは別の、河それ自体から出る事を意識して流れに逆らうと河は形を変えてしまう。それから僕はいくつかの流木に話し掛けてみた。それらのうちいくつかは流木である事を自覚しているようだったし、いくつかは僕が何を言っているのか理解できないといった風だった。

 僕が流木に変化したのではなく、僕は元から流木だったのだろうか。ただ、見える光景がずいぶんと変化しただけなのかもしれない。それ以外は、僕が目覚める前にいた世界と本質的には変わらない。僕は河の中で自由に動けたし、自由に話す事が出来た。ただ、河から出る事は出来ないだけだ。ここでは、自分が流木だと自覚している者も、そうでない者も、等しく流されている。どちらがいいとか悪いとかの問題ではなく、皆流木である事には変わりはなかった。恐らく、僕が今見ている光景と、自分が流木であるとは思ってもいない者が見ている光景は、違うものなのかもしれない。きっと、彼らは僕が昨日まで見ていたような光景を見ているのだ。その辺りがまた難儀な事かもしれないけれど、すぐに僕は慣れるだろうし、そのうちあまり問題もなく彼らともコミュニケーションを取れるようになるだろう。それに、自覚していようがいまいが、どちらがいいとか悪いとかの問題ではない。

 僕は流木である自分の体から取り出したタバコに火をつけて、まあ、驚いた事にタバコも吸えるのだ、さっき別れた友達のところへ流れてゆこうと思った。渋谷へ行ってCDを買いたかった。