■季節が君だけを変える(BOφWYの曲を取り上げて感想文を書いてゆくコーナー) テキストへ戻る
JUSTY…2002年9月26日アップ

DON'T ASK ME…2002年5月26日アップ

IMAGE DOWN…2002年3月アップ


『JUSTY』
Words by KYOSUKE HIMURO, Music by TOMOYASU HOTEI

JUSTY 季節はずれのアイリス
JUSTY 危険な恋のサンライズ
エスプリックな まなざしに プリマドンナ夢中なのサ
エキゾチックにイタズラなジョーゼット NINETEEN

JUSTY デセールのその後は
JUSTY 退屈すぎるサンセット
ボナンザグラム片手に ちょっと気取ってほほえみ
ぬれたままの唇で スマック for GOOD NIGHT

最初から BABY IT'S ALRIGHT
WONDERFULL TIME ONLY YOU ALRIGHT

JUSTY しなやかなエピローグ
JUSTY 消え入りそうな MOON LIGHT
マーマレードな恋だから フェミニストのままじゃいられない
いつでもそばに居て欲しいのサ
I Think Just Now!

この『JUSTY』はアルバム『JUST A HERO』に収録されている楽曲で、作詞は氷室京介である。どうだろう、まさにヒムロックここにあり、といった風情の詩作ではないだろうか? と、ここで考えて欲しいことがある。そもそも、「JUSTY」というのは英語なのだろうか。長い間特に疑問も無くこの歌を聴いてきたが、試しに手元にある英和辞書とgooの辞書で調べてみたら「JUSTY」なる単語は無いのだ。ではドイツ語などか?いや、それは無いと思うけれど、しかし何かしら英語ではない違う言語?そうなんだろうか? ああ、まるでわからない(その辺、恥ずかしながら、無学な自分にはわからないので「JUSTY」という単語に関する情報をお持ちの方は教えて頂きたく思います)。ともあれ、耳珍しい単語である事に間違いは無いだろう、というより、恐らくそんな単語は無いのではないか? 一種の造語であり、曲に華を添える掛け声的な使われ方なのかもしれない。

以上の事をふまえ考えると、『JUST A HERO』全体を見て、というより、ファーストアルバム『MORAL』以降のBOφWYに顕著なのが「歌詞の無意味化、そしてオブジェクト化」であろう。中期BOφWY作品である『JUST A HERO』では、特にそれを顕著に感じる(後期においては、『JUST A HERO』よりは意味が通る歌詞が目立つ)。この『JUSTY』にしたって完璧なくらい歌詞に明確な意味は存在しない。以前、このコンテンツでも触れたが、氷室の歌詞は歌った時の語感や、目にした時の見栄えに特化された、言うなれば一種のオブジェクト指向型歌詞のように見えるのだ。「部品」としての言葉を楽曲に乗せ、言葉の意味よりも楽曲の強度だ、耳に入った時にどれだけ格好良いかのみを考えてる、と言わんばかりのスタイルである。そのあたり、いかにも80年代、と言えばそれまでなのだろうが、氷室京介のその後の詩作を追うと特別大きな方向転換をそこに見出す事は困難だ。彼がただ80年代的な空気に流されたのではない事が想像できる。そう、ヒムロックは本気なのだ。氷室京介には、所謂格好良さげな言葉、それは90年代以降には避けられる事の多かった類の言葉たちだが、を使う事に対する逡巡が無いのだ。その逡巡の無さがBOφWY、氷室京介の「The 美学」の強度を増すエフェクトとして機能する。BOφWYの楽曲にはだから、その意味での迷いが無いのである。

さて『JUSTY』のサウンド面での特徴だが、ファーストアルバム『MORAL』の性急なサウンドから、ひねった展開を見せるようになってきた中期BOφWYのエッセンスがよくあわられていると思う。『MORAL』の頃はパンクやスカっぽさなど、むしろサウンドのスタイル自体に多彩さを感じたが、『JUST A HERO』の頃はそれに加えメロディ展開やアレンジでのひねりが堂に入ってると感じる。さあ、では『JUSTY』という1曲に絞った話題に移ろう。『JUSTY』ではAメロから、「マーマレードな恋だから」部分まで、氷室のヴォーカルを加速するかのように布袋のギターがスピーディに刻まれる。そう、ここで特筆すべきは布袋のギターワークの妙である。まずリフが印象的なイントロ、この際のリズム隊との絡みは、数あるBOφWYの楽曲の中でも際立っている。また、ギターソロも白眉である。少しジプシーキングス辺りを想起させる流麗でクラシカルな展開から入り、そして堰を切ったようにディストーションがかったギターが吼えるのだ(個人的な話だが、このソロの部分で何度鳥肌がたった事だろう!)。『JUSTY』でのギターソロはギタリスト、布袋寅泰のベスト・ワークの一つと断言したい。静から動へ。その移行の鮮やかさが耳に消えない刻印を残すのである。

BOφWYの楽曲はサビのキャッチーさよりも寧ろAメロBメロの格好良さで引っ張っている事が多いと言えよう。『JUSTY』では「メロディの際立ったサビ」ではない類のサビ、「最初から BABY IT'S ALRIGHT」というサビが繰り返される。BOφWYや、その後に出てきたBUCK-TICKの初期あたりに顕著だが、サビに際立ったメロディが無く、それでいて繰り返しというパターンは多い(そもそも、サビ自体がはっきりしないというパターンもかなりある。この辺りは、例えばBOφWYの影響下にあるGLAY的な楽曲との相違点だ)。試しにカラオケで歌ってみると良いだろう。サビの繰り返しの多さに、演奏を停止して切り上げてしまいたい衝動に駆られる事もしばしばだ。だが、それが楽曲自体の脆弱さを示すとは言い難い。それは主にカラオケの音が貧相な事に起因するからだ。BOφWYにしろBUCK-TICKにしろ、音源を聴いている分にはいたく格好良いのである。他のアーティストにしたってカラオケで再現すると聴き劣りするのは当然なのだが、やはりBOφWYの楽曲は特に、バンドという形態で再現される方が圧倒的に格好良いと思う。BOφWYを聴いた無数のキッズが楽器を手にした事は、その意味でも当然なのかもしれない。BOφWYの曲を歌いたくなる衝動、それは、「流行りの歌を歌いたい」という方向性よりもむしろ、バンドマジックを(擬似的にでも)体験したい、という方向に強く訴えかけてくるものなのだ。

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DON'T ASK ME 作詩・作曲/氷室京介
さみしがりやの FUNNY LADY 眠れずに CRY 想い出す よかった頃をかき集め
そんなに悲しくもない わかっていた でも今は言葉に出しては言わないで

泣きながら確かめて 傷ついた気持ちでダーリン
いつだって夢を見て 傷ついた気持ちでダーリン
YOU ASK ME WHAT I WANT DARLING
DON'T ASK ME WHAT I WANT DARLING

素敵な時過ごした? なんて 今はまだ聞かないで 最後の愛が眠るまで
退屈な時間だけが 気にかかる様じゃ おしまいネ セクシャルアートも ただつらいだけ

さよならも言わないで いつだってセンシャルなダーリン
さめたKISS ばらまいて いつまでもセンシャルなダーリン 
YOU ASK ME WHAT I WANT DARLING
DON'T ASK ME WHAT I WANT DARLING

この『DON'T ASK ME』だが、さみしがりやのFUNNY LADY、と氷室京介が歌いだすその瞬間に、既に聴き手はBOφWY世界に強制的に引き摺りこまれる筈だ。いや、正確に言うのならヒムロックの世界に、かもしれない。『DON'T ASK ME』は氷室が作詩作曲という事もあるが、BOφWY的と言うよりはむしろ氷室的な印象を受ける。ヒムロックの歌詞には恋愛の終末期、「去り行くアイツ」或いは、既に終焉を迎えてしまった恋愛、「去っていったアイツ」というモチーフが繰り返し登場する。と同時に、それを「そんなに悲しくもない」と強がりつつもやはり辛いと感じる俺、というパターンが幾つも見受けられる。しかし、身も蓋もない言い方をすればそれは、裏返しの「でもそんな俺って格好良くないか?」の世界でもある事実は否定できない。つまり、そんな世界を格好良いと思えるか思えないかがザ・ワールド・オブ・ヒムロックを受容するか否かの分かれ道となっていると僕は思う。さて、でもいいんだよ、ヒムロックがやれば格好良いのだからネ!と書いて終わらせたい気分ではあるがもう少し続けよう。『NO. NEW YORK』等の詩にも顕著なのだが、BOφWYの詩に登場する女性は、例えばさめたKISSをばらまく「さみしがりやのFUNNY LADY」であったり、群がる野郎キリが無い「ちょっとアーパーなオマエ」だったりしてなんとも捕まえ辛い女(だけどそいつにどうしたって俺は惹かれちまうのサ!)、というのが基本的なところである。等身大の君を想うよ、というような世界にはまずなりそうもない。オマケに「ボナンザグラム片手にチョット気取って微笑」んだりするような、冷静に考えると意味のわからぬ女が多く登場する。しかし、氷室京介の詩はメロディに乗せた時の響き最重視、格好良さという部品を組み合わせた言わば一種のオブジェクト指向型言語だと言える。その部品の、いかにも氷室的な組み合わせに僕らは酔うのだろう。だから、それってちょっとおかしくないか?つうかボナンザグラムってなあに?チョコより甘いって本当なの?とは流石の中学生でも気付くものだと思うのだが、実際問題そんな事は瑣末な疑問なのだ。それを捻じ伏せてしまう程のわかりやすく、かつ無謬の格好良さを誇るのが氷室の詩、及びBOφWYなのじゃあないだろうか。

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IMAGE DOWN 作詩/氷室京介 作曲/布袋寅泰
かっこがいいよ お前はいつでも 心も体もバラ売りしてさ!
数をこなすのと もててる事とは 同じじゃないんだぜ 尻軽 TEEN AGE GIRL
愛だ恋だを上手に使いわけてみても 先も中身もないのさ 尻が軽いだけじゃ

あきれちまうぜ まるきりタイフーン 足りない頭 じょうぶな体
英語数学まるでダメだけど あっちの方は インテリジェンスかい
ファッションの一つなんて とんだ思いちがい ずっとそんなじゃ いつかはくるぜ しっぺ返し

IMAGE DOWN IMAGE DOWN IMAGE DOWN DOWN DOWN DOWN

アルバム『MORAL』収録のこの『IMAGE DOWN』。後期とは毛色が違うと言える初期BOφWY楽曲の中で、この『IMAGE DOWN』と同『MORAL』収録の『NO NEW YORK』はアルバム『JUST A HERO』後に発売されたライブ盤『"GIGS" JUST A HERO TOUR1986』にも、最後のライブ盤『"LAST GIGS"』にも収録されている。『MORAL』収録の他楽曲、例えば『SCHOOL OUT』や『ELITE』と比べてのキャッチーさ、というよりは中期〜後期以降顕著な「BOφWY」度(いかにBOφWYっぽいか)において勝っているこの『IMAGE DOWN』がライブ盤にも収録されるような「初期の代表作」的扱いになっているが、その点に拠るところが大きいのではないだろうか。

僕は、初期BOφWY、例えばBOφWYが暴威で、氷室京介が氷室狂介であった頃などを知識としてはある程度知っているものの、実際はまるで知らない。もっと言えば、僕がBOφWYを聴き始めた頃は既に彼らは解散していた。僕がリアルタイムで聴けたのは布袋と吉川が組んだCOMPLEXや氷室、布袋のソロ等である。そんな僕や僕の周囲がBOφWYを聴いていたのが中学時代の事で、僕含め普通の中学生やヤンキーなど、更に言うなら僕の通っていた学校では少し不良の匂いがする「カッコ良さ」に憧れる奴らはほぼ皆BOφWYに夢中だった。氷室かっけーべ、布袋のギター超欲しくね?などのある種プリミティブな会話が頻出、横行していたのである。当時は、例えばこの『IMAGE DOWN』の歌詞の内容なんて誰もほとんど気にしちゃいなかった事を覚えている。歌詞を読むと、所謂フラッパーガールの奔放さに苦言を呈する、という内容に読めるのではあるが、少なくとも僕の周りは僕含め本当に誰もそんな事気にしちゃいなかったのである。そもそも何が『IMAGE DOWN』なのか、そんな事を気にするよりも曲間のIMAGE DOWN IMAGE DOWN IMAGE DOWN DOWN DOWN!という部分を氷室と布袋になった気分で共に歌う、そっちの方が遥かに重要だった。歌詞の内容をまるで無視する聴き方には賛否両論あるのだろうが、何も考えずにまず格好良いから聴く、そういった所謂ロックの初期衝動を僕が最初に感じたのはこのBOφWYだった。

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